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万人が暮らしやすい社会を考える

-もしも、日本が民主主義、資本主義国家ではなくなったら-

 

高田 文生 2010 811日 提出

 

 

1. はじめに

 私は現代の日本が抱える大きな問題の一つ、広がりすぎた上流層と下流層の格差に着目して、この問題を解決するための社会構造を考え、今回レポートとしてまとめた。以下はその報告である。

 

 

2. もしも、日本が民主主義、資本主義国家ではなかったら

 この国がもし民主主義、資本主義国家ではなかったら社会はどうなるのか。現在の日本で、確かに我々の多くは安居楽業、平穏無事に暮らしている。しかし、その裏では低賃金の派遣社員として厳しい生活を送っている人や、347万人におよぶ完全失業者[1]がいる。はたして今の日本は万人が生きていくのに適した社会といえるだろうか。そういった人々を減らすためには、自由や平等といった視点から現在の日本を捉えなおす必要がある。そこで、私は現在の日本人の社会主義的意識、アナーキズム的意識を説明した上で、この二つの視点を取り入れた「社会主義化した日本」と「アナーキズムによる日本」、二つの日本を想定してみたい。それぞれがどのような社会構造を持つに至るのか、現実の社会主義やアナーキズムと比較しその特徴をあげていき、そのうえでそうした社会を想定することの意味を説明する。

 

 

3. 日本人の社会主義的意識とアナーキズム的意識

 これまで日本人に社会主義やアナーキズムといった思想は根付いてきたといえるのだろうか。日本は戦後アメリカを代表とする西側諸国の占領により民主化が進んだため、表だってこれらの思想が台頭してきたことはない。とくに、社会主義や共産主義については、それらの思想に根ざした労働運動などが過激になった時代、占領軍はレッドパージや逆コースを進め、日本を西側諸国の防波堤として利用するようになった歴史がある。

 しかし一方では、日本にはゴルバチョフをして「日本は世界で一番成功した社会主義国である」とまで言わしめたほどの社会主義的平等の思想がある。もちろんこのゴルバチョフの発言には資本主義の日本、当時社会主義だったソビエト連邦双方への皮肉があったことは言うまでもない。しかし、彼が日本人に社会主義的思想の一端を見出したことは事実である。確かに日本では政治体系や思想、イデオロギーではなく、国民意識が社会主義における経済平等の理念に近かったといえる。一億総中流の意識などが代表的で、多くの人は少なくとも自分を「人並み」と考えていた時代があった。一億総中流意識の定義は曖昧なものではあるが、バブルが崩壊した後にもこの意識は残り続け、2000年代まで続いていたとされる。現在でこそ一億総中流という認識はなくなったが、平等を前面に押し出すことを理想と掲げる、社会主義的ととれる考えを持つ人が多く見受けられることは、一概には社会主義とは言えないかもしれないが、その一部は確実に社会主義に根ざしている。

 アナーキズムとは自由の原理主義[2]であるといえる。そうしたアナーキズム思想は多くの場合無政府主義、反秩序主義として社会に否定される。事実アナーキーという言葉は「政府を持たないこと」を意味し個人の自由に至上とするが、アナーキズムという思想自体は本来組織や秩序を必ずしも否定するものではない。可能な限りの自由な状態の中で組織、秩序を肯定するアナーキズムも存在する。そのひとつが日本の農村社会で育った、権藤成卿に代表される共同体アナーキズム[3]である。大杉栄の妻であった伊藤野枝もまた、「無政府状態」は村々に祖先以来続いてきたこと[4]を指摘している。日本の農村はかつて権力に対して否定的な態度をとっていた。荘園領主や武士、地主といった権力と対立し、一揆を起こすこともおおっかたことは周知の事実である。彼らは必要最低限のリーダーを決め、自然発生的な自治の単位を形成する。そしてその共同体に溶けこもうとする意識、縦ではなく横のつながりを大切にする意識が働く。すなわち、仲間意識を規範とし、自我を貫こうとせず、角が立つような対話や議論を避け、場の空気を読むことを大切にする。そのうえで個人は自由に行動することができる。実際の権力は存在しない、あくまで自分たちで自分たちの自由行動を律するのである。前で触れた一億総中流の意識も横のつながりを大切にしている意識と考えることもできるだろう。現在の日本でも共同体的なアナーキズムの思想は馴染んでいるといえる。

 

 

4. 考察 二つの日本

 以上のように、日本人には社会主義やアナーキズム的なものの考え方がある。自由平等を根底に持つこれらの日本人の思想を社会に適応すれば、暮らしやすい社会を形成できるのではないか。そこで「社会主義国家の日本」と「アナーキズムによる日本」、二つの日本を仮定し、万人にとって暮らしやすい社会になるのかを想定してみたい。

 

4-a. 社会主義国家の日本

 まず、前提として社会主義の日本は生産手段の社会所有、計画経済により平等が確保しようとする点でこれまでの社会主義と一致する。平等を強調する以上これは外せない。では私が想定する社会主義の日本と従来の社会主義国家はどこがどのように異なるのか、相違点について述べる。社会主義国家の多くはすでに崩壊している。その原因はソ連という東側のリーダーを失ったこともあるだろうが、それ以外にも社会主義のシステムが人間の利己性や怠惰性を考慮し切れなかったことが一番大きいのではないかと思う。以下の三つは私がその崩壊の原因を少しでも取り除くために重要だと考える修正項目である。

@暴力的な国家権力を制限する

 これまでの多くの社会主義国家や現在の北朝鮮の状況のように、国家が暴力的権力を独占してしまうと、富の配分はうまく機能しないだけでなく、計画的に不平等な配分がなさることがある。日本は紛争解決の手段としての軍を廃止していることから、これまでの社会主義国家と比べると国家の暴力的な権力をある程度抑えることができる。それに加え秘密警察のような組織を撤廃[5]することでよりいっそう国家の暴力を制限できる。

A市民に国家権力の担い手を罷免させることができるような制度ができる

 @に加えて、政治腐敗を防ぐために、市民が国家権力を監視する仕組みが必要である。そこで、市民が国家権力の分有者を罷免させることができる制度[6]を整えるとよいだろう。政治腐敗で市民の生活に悪影響が出た場合、市民はそれらを引き起こした権力の分有者を無記名で摘発できる、といったものである。

B高度技術の発展により労働が支える

 これは高度技術が発展するという点では資本主義とは変わらない。これまで機械化やOA化に伴う労働の効率化が図られてきた、これからは更に進化を遂げた技術が労働を支え、ときには機械が人にとってかえられるようになる。これが社会主義の計画経済をささえる計画的労働、生産にとって重要になる。

 これまでの社会主義国家の失敗の原因は大きく二つあるといえる。一つは資本主義の発展に対する社会主義の停滞であり、それによる国民の不満蓄積である。そしてもう一つ、特に重要な方が国家権力の独占である。私が@、Aで国家の権力を制限する仕組みを取り上げた理由はこの失敗要因を回避するためである。

 計画的な労働は社会主義の中核とも言える部分であり、計画性なしには社会主義はありえない。怠惰や非効率な手法を用いるなどにより労働が衰退すれば社会主義は危機に陥ってしまう。これは高度技術の利用である程度回避できる問題だ。機械が人のたてた計画にそって労働の補助をすればよいのである。以上からBのように労働を支える要素が必要であると考えた。

 これが私の想定する社会主義の日本のおおまかなイメージである。このような社会主義の日本を維持できるか否かは別として、少なくともその中で人々は現在の日本と比べて安定した暮らしやすい生活を送ることができる。

 

4-b. アナーキズムによる日本

 次に、3章であげた共同体アナーキズムの視点からアナーキズムの日本を考えてみる。まず、そこには外部権力である政府は存在しない。しかし、ここで共同体アナーキズムではある程度の秩序が成り立ち、人間関係、交流が成り立つことは頭に入れてもらいたい。これまで考えられていたアナーキズムでは、私たちは暮らしやすい社会を形成することができない。しかし、この共同体のアナーキズムならば、少なくともその共同体の中では安定した生活を送ることができると考える。ここで共同体的アナーキズムの日本の、ほかのアナーキズムとは異なる点について述べたい。以下がその相違点である。

@協働上のリーダーなどは認める

 これは文字通り、協働や分業におけるリーダーまでは否定しない[7]ということである。しかし、リーダーといっても、それは階級などによって決まるものではない。あくまでアトランダムに、決定するものである。したがってリーダーには常に個人を制約するような権力は付与されない。交代制をとるのも有用である。

A個人の自由を制約しない人間関係が抑止力になる

 なんらかの形で個人を抑止しない限り万人の自由、秩序は保たれない。しかし、アナーキズムが公権力を否定するのは、外部権力により個人が抑圧されるからであるため、外部権力を用いて個人を抑止することはできない。そこでアナーキズムの日本では、共同体の中の人間関係(他人の目)による権力を内在化することで、度の過ぎた自由が抑止される。

B最終的な権力としての「自分たち」

 Aのように、いくら自分を律するような共同体ができたとしても、すべての感情を押し殺して生きることはできないだろう。必ず、衝動的な行動、他人の自由まで侵害するような行動が出てきてしまう。そうした事態が実際に発生してしまったときの制裁は誰が行うのか。現実ならば裁判所がその役目を担うが、アナーキズムは公権力を否定するため、司法機関の存在すら否定してしまう。そこで不可避な衝突、対立は「自分」を拡大した「自分たち」、共同体に解決を委託する仕組みをつくる。

 思うに、権力だけでなく、リーダーすら否定してしまう潔癖なアナーキズムは非効率にとらわれ、満足するような生き方を達成できない。@でリーダーの存在を認めたのは、ガチガチの個人至上を掲げ非効率にとらわれないようにするためである。

 Aは、アナーキズムが抱える、万人の自由に「生きる」ことができるようするには、国家権力により自由を制限しなければならない、という矛盾[8]に対する解決策である。あくまで個人の自由はあるが、人様に迷惑をかけて恥をさらしたくない、という気持ちは日今の本人の性質にも合致するのではないか。

 Bをもうけたのは、私的制裁を認めてしまっては共同体のなかで秩序を保つことができないからである。これに関して、共同体による制裁は裁判所と同様な外部権力を認めることに他ならないのではないか、という反論も当然あるだろう。しかしながら、自分が想定する共同体とは、当事者を含めた共同体であって、現実にある当事者と切り離された裁判所とは全く別のものである。よって共同体はあくまで外部権力ではない、といいたい。

 以上が私の考える共同体アナーキズムの日本である。はたしてこの日本は万人にとって暮らしやすい社会なのか。結論からいえば否、である。なぜなら、共同体アナーキズムにおける「共同体」は、互いの仲間意識が大切であり、よって小規模なものに限られてしまうからである。小さな共同体が一つの単位である以上、普遍的な資源等の流通は望めない。個人がその生活に満足するなら話は別だが、生活水準は地域により大きな格差ができ、暮らしやすい社会は形成し得ないといえる。しかしそれでも、ただ盲目的に個人の自由を称揚するだけのアナーキズムに比べればいくらか現実味がある。

 

 

5. 結論

 社会主義の日本はある程度持続させることができ、実現不可能ではないだろう。しかし、アナーキズムによる日本は、残念ながら実現しえないし、実現するメリットも少ない。これまで仮定の話として社会主義、アナーキズムの日本を考えたが、では、現実に社会主義やアナーキズムの社会を考えることが無意味なのかと問われれば、私はそうではないと答えるだろう。私は現在の秩序を破壊してまで理想を達成するべきだとは思わないが、社会を担うものの一端にそういった思想を持った人間がいたとしても、なんら問題ではないと考えている。なぜなら、現在日本では社会主義、アナーキズムの活動による社会への影響というのは、目に見えるほどのものではないが、それらの社会主義的思想や共産主義的思想が現代の民主主義や、いきすぎた資本主義を修正するシステムの一部として働くときがくると確信しているからである。例えば、福祉国家の実現や格差社会を問題にする主張が強くなってきているが、これは自由競争の原理や私有財産を否定しうる、社会主義的思想であるといえる。その社会主義的思想は、高齢社会による問題やいきすぎた格差に歯止めをかけ、万人がより暮らしやすい社会を形成するのに一役買うだろう。同様に日本の公権力に否定的な行動的なアナーキズムは、社会のシステムの一部として現代社会に啓蒙的に作用する[9]ことがある。それらはテロや犯罪のような反社会的活動以外にも、合法的な形で表出し社会に疑問を投げかけることだろう。現代において社会主義やアナーキズムは、その体制の実現よりもその理想を考えること自体に価値があるといえる。万人に暮らしやすい社会を作っていくためには、単に平等や自由を謳歌するだけでは不十分である。そこに至上の理想を見出す人がいて初めて必要条件を満たすことになる。

 

 

参考文献

 

アナーキズム-名著でたどる日本思想入門

  浅羽通明 著  筑摩新書 2004年

いま社会主義を考える-資本主義の臨界としての社会主義

  鷲田小弥太 著  三一書房 1991

ネオ共産主義論

  的場昭弘 著  光文社新書 2006年

社会主義とは何だったか

  塩川伸明 著  勁草書房 1994年

市場経済と社会主義

  伊藤誠 著  平凡社1995年

カール・マルクスの弁明―社会主義の新しい可能性のために

  聽涛弘 著  大月書店2009年

格差社会で日本は勝つ―「社会主義の呪縛」を解く

  鈴木真実哉 著  幸福の科学出版2007年

資本主義後の世界のために-新しいアナーキズムの視座

  デヴィッド・グレーバー 著 高祖岩三郎 訳  以文社 2009年

国家は、いらない

 蔵研也 著  洋泉社 2007年

アナーキー・国家・ユートピア-国家の正当性とその限界

 ロバート・ノージック 著 嶋津格 訳 木鐸社 1995年

参考Webページ

 

2010年5月現在 総務省統計局調査

URL http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/index.htm

訪問日 2010年7月10日

 

 



[1] 総務省統計局調査

URL http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/index.htm

[2] アナーキズム-名著でたどる日本思想入門 序章 反逆とユートピア

P14

[3] アナーキズム-名著でたどる日本思想入門 四章 社稷を想うこころ

P101

[4] アナーキズム-名著でたどる日本思想入門 四章 社稷を想うこころ

P108

[5] いま社会主義を考える-資本主義の臨界としての社会主義 第二部 社会主義の現在と未来

P169

[6] いま社会主義を考える-資本主義の臨界としての社会主義 第二部 社会主義の現在と未来

P170

[7] アナーキズム-名著でたどる日本思想入門 終章 日本アナーキズムの現在

P276

[8] アナーキズム-名著でたどる日本思想入門 終章 日本アナーキズムの現在

P269

[9] アナーキズム-名著でたどる日本思想入門 序章 反逆とユートピア

P22